牛・歴史
山形牛は、山形県内において最も長く育成・肥育された黒毛和種で、(社)日本食肉格付協会で定める肉質が4等級以上の枝肉とされています。
歴史は古く「大宝厩牧令 の発布」のころに始まると推測され、農耕、運搬などの目的で飼育のかたわら肥育を始めたところ、風土に恵まれよい肉牛が産出されたと言われています。
明治維新の当時、米沢学館に招請された英国人が、当地産肉牛を横浜に送り食したところ、美味いと評判になり多くの人に知られ、県内全域で肥育が普及し、県 内各地で多く銘柄牛が創出された。昭和37年に県内銘柄牛の品質規格を統一するため、当時の知事の首唱により「山形牛」と銘命されたそうです。
江戸時代までは、馬は戦の立役者で、各藩は肝煎りで改良に熱心でした。しかし、牛は戦争には役立っていませんでした。荷物を運ぶことと、農耕用に使われていただけでした。
だから、牛の改良は民間レベルで細々と行われてきました。
当時の改良と言えば、良い牛を集めて近親配合をさせて、そこで良い牛が生まれたら次の世代の親として使うという方法です。
牛肉を食用としたのは、牛が持ち込まれた縄文~弥生時代とされています。
しかし、「肉食禁止令」が発令された飛鳥時代以降、牛肉をはじめとする肉食が禁じられるようになりました。
それからしばらくの間、牛は農耕や運搬にのみ使われるようになったそうです。
戦国~江戸時代になると、外国人の影響を受けるとともに健康回復や病人の養生、いわゆる「薬喰い(くすりぐい)」として肉食が始まりました。
大正時代では日常的に食されるようになり、現在ではわれわれ日本人にとって欠かせない食材となっています。
牛の起源は弥生時代の中頃に、朝鮮半島経由で入ってきたという説が定説になっています。
遺伝的に見ると、日本のウシは、中国やヨーロッパのウシと近いことが分かります。
当時は、交通が今ほど発達していないので、それぞれの地域に様々な特徴を持ったウシがいたと考えられます。
鎌倉時代に描かれた国牛十図のウシは、実に様々な毛色をしています。
また、岩手県(旧南部藩)にいた南部牛は、朝鮮半島からではなく、北方から連れてこられたという説もあり、興味が持たれます。
江戸時代、但馬から紀州の農村に連れて来られ、
農耕用に調教された牛たち。
その紀州地方で成長した後に松阪地方へと入って来たのが、
松阪牛の発祥と言えます。
この牛は松阪近辺では「新牛」と呼ばれ、
おとなしくて働き者だったため、農家に大切に扱われていました。
飯南町には「松阪牛発祥地」の碑が建っており、
紀州から来た牛を家族のように飼い、共に農作業をしたことが、
この町に今も残る農村風景が物語っています。
明治になると鎖国が解かれ、外国人による牛肉の需要が激増、
同時に日本人にも普及し始めます。
それまで「農耕用」であった牛たちは「食肉用」に注目されることに・・・。
農耕に3年程度使働いた後に「野上がり牛」として1年間肥育、
「食肉(太牛)」として供給しはじめます。
まもなく、「牛肉を食す」ことは、「散切り頭」とともに文明開化のシンボルとなり、
「牛鍋(現在のすき焼き)」が大流行します。
(和田金の[鋤焼き]開始は明治16年。)
さて、この頃のすき焼きですが、材料は「牛肉」「ネギ」のみ。
鉄鍋で焼き、味噌仕立てで食べていたようです。
松阪地方の牛を東京に広めたのは、今で言うPRイベントだったのです。
これは、松阪の牛を集め、徒歩で一路東京を目指した、
「牛追い道中」と呼ばれる大行進で、
汽車も自動車もない明治5年から二十数年間続けられ、
それが全国からスポットを浴びる事になります。
汽車などが整備された後も 「鹿鳴館」「高級料理店」などからの特注が
相次ぎ、その品質が認められていきました。
その後、昭和10年の畜産博覧会でついに最高の名誉を獲得し、
「松阪牛」の名が全国に浸透していったのです。
昭和50年代は経済の安定成長期であり、牛肉の需要が強かった。
畜産物全体では需要の大きな伸びが期待でき ない時期に入り牛乳の生産調整も始まったが、牛肉は唯一需要の伸びが期待される畜産物と言われ、子牛価格も高騰しました。
酪農家は生まれた子牛を肥育素牛とし てできるだけ高く売ることを考えて黒毛和種を交配したF1子牛を生産するようになり、肥育農家も高い肉専用種の素牛の導入から一部をF1に切り替える傾向 も現れました。
また、繁殖肥育一貫経営も広まり始まりました。
しかし、高い素牛の反動で肥育経営は苦しくなり、その反動で昭和56、57年には子牛価格が暴落し、この 状態はかつてない長い期間続き回復も緩やかでありました。
牛肉消費面では、国産牛肉の価格が諸外国に比べ高いことが消費者やマスコミから批判の対象にされました。また 、、オーストラリアから牛肉の輸入自由化を求める要求が強まったが、昭和57年には輸入牛肉の枠を大幅に拡大することでアメリカとの合意ができました。
一方では国産牛肉対策として昭和28年から続いた酪農振興法を改正して酪農及び肉用牛の振興に関する法律とし、大家畜は休耕田や草資源の活用や化学肥料で 地力の下がった土地の地力回復など、土地利用型農業の基幹と位置付けて耕種部門との調和のもとに大幅な増頭を計ることとし、牛肉生産コストは3割程度下げ ることを目標とすることにされました。
和牛維新の成果は、昭和42年に行われた第1回の全国和牛産肉能力共進会で集約されました。すなわち、和牛の産 肉能力は著しく改善されたとして若齢肥育の目標体重は18ヵ月齢で500kgに変わり、さらに550kgに変わりました。また、理想肥育は24ヶ月齢で 650kgに変わり、さらに700kgに改められ、現在は670kgになっています。この間の肉牛の改良は肉質を維持しつつ増体を大幅に改善しようという考 え方で行われていました。
昭和40年代は経済の後期高度成長期に入り牛肉需要は伸びつづけた。肉専用種の頭数は昭和39年の155 万頭を底として昭和45年には163万頭になったが、この後資源食い潰しの形で少しずつ減少が続きました。昭和47年にはオイルショックの影響で牛肉消費も一 時的に弱まったがその後間もなく回復し、昭和49年には137万頭になった。このことから肉専用種だけでは将来の牛肉はまかなえないとして牛肉資源をめ ぐって議論がたたかわされた。
その結果として、昭和30年代中期から試験的に始められた乳用種雄子牛の肥育が急速に普及し始め、昭和 48年には国産牛肉の2/3強が乳用種の牛肉で占められるようになり、これ以後は70%を超える状態が続きました。乳用種ははじめ雄のままで肥育され、出荷月 齢も15~16ヶ月齢であったが、去勢して管理をしやすくし、それなりに肉質の良いものを狙うようになり、肥育期間は18ヵ月齢になった。肉専用種の若齢 肥育は、乳用種の肥育にその座をあけ渡して理想肥育に変わっていったが、昭和40年代中期には、理想肥育の出荷月齢を大幅に越えるものも現れ、若齢肥育と 言う言葉は若い牛を肥らせて若い月齢で出荷する本来の意味から単に若いときから肥育するとか、乳用種の肥育を意味するようになったりして次第に曖昧になり 用いられなくなりました。同時に、理想肥育と言う言葉も松阪肉を作る肥育とか肉質を良くするためとくに長く飼うという程度の意味になり、次第に消えていきました。
肉専用種の肥育期間が延びた第一の理由は、素牛が高くなり元手を取るためには少しでも肉質を良くする必要 があったことと、乳用種の牛肉が増えたために肉用種ではこれより一段と肉質を良くする必要があったためであり、肉専用種の改良も増体から肉質に変わって いきました。
第二の理由は急速な規模拡大で良質な粗飼料の生産が追いつかず手軽で安いワラだけの給与に変わったが、ワラの嗜好性は低いために濃厚飼料の過給と なり消化管を中心とする病気が多発しました。やむを得ず濃厚飼料を制限してワラを食い込ませるようにしたために増体速度が遅くなり肥育期間が長期化しました。
昭和40年代の牛肉資源としては草資源の利用性の良い外国種を導入すること、外国種を肉専用種に交配して肉量を改良すること、外国から肥育素牛を導入することなどが検討されました。
外国種を導入して草資源を活用する試みは、アバディーンアンガスとヘレフォードを導入して北海道や東北北 部で行われました。
外国種と肉専用種の雑種子牛の利用は多くの試験が行われたが、実際にはわずかしか行われなかったそうです。乳用種にシャロレーを交配することも行わ れたが、子牛が大きすぎて難産が多かったために行われなくなりました。
ブリティッシュフリージヤンの肥育も試みられた。肉用種の外国種による改良については、 再び明治時代の雑種混乱期を再現するのみで、その収拾には再び100年を要するとして退けられました。外国産素牛の導入は関税免除処置がされて、昭和47年度 から盛んに肥育が行われました。
昭和31年には鉱工業生産が戦前水準に回復し、さらに好景気が続き、前期経済高度成長期に移行していきました。輸 入穀物により食糧の安定的な確保の目途が立ち、また農村と都市との所得格差が広まったために、昭和30年代前半は農業の曲がり角と言われる農業の近代化を 模索する時期でもありました。
役肉用牛は役・肥の役目を耕運機と化学肥料にあけわたして、大量に市場に放出された。これらの大量で安い素牛と輸入穀物を用いて昭 和34~35年には空前の肥育ブームが起こり、肥育規模も急速に拡大して現在の大規模化し専業化した肉牛肥育経営の始まりとなりました。
しかし、肥育ブームが 資源の食い潰しの形で進んだため将来の牛肉資源の枯渇が心配されるようになりました。
この時期を経て昭和36年には適地適作、規模拡大と専業化等を柱にした農業基本法ができ、37年には農業近代化資金の創設や農業法人の創設等を通して農業基本法の実現が図られた。肉牛肥育経営はこれを積極的に取り入れて規模拡大と専業化を進めていきました。
昭和37年に、役肉用牛関係者は役肉用牛を日本独自の肉専用種に変える事業を始めました。これを和牛維新と いっています。
その基本となった思想は、役肉用牛は農耕等の使役を考えて体の大きい鈍重な牛をさけてきたので、体は小柄で外国種より増体が少ないのです。
しかし、 明治時代に輸入された大型の外国種の増体能力と在来和牛の肉質を備えた牛は多く残っており、選択と交配が適切であれば日本独特の肉専用種は比較的短期間に できるとするものでした。
この考え方に従い、まず審査標準が体積に最重点をおいたものに改正され、これを基に新しい集団育種事業を 開始しました。
また、種雄牛の産肉能力検定事業を発足させ各地で検定が始まりました。牛枝肉の取引規格も作られたが、これは流通の合理化に資するものと言うだけで はなく、どんな枝肉を目指して牛を改良するのかとか肥育技術の改善をするのかと言った肉牛の生産面でも極めて重要なものになりました。やや遅れて日本飼養標準 も作られました。これらはその後に改正がなされたり、それぞれ枝分かれし、範囲を拡大してきたが、現在行われている多くの事業の原型となったようです。
肉牛の肥育では従来の使役に使った後の成牛肥育に変わり、発育中の若い牛を肥育し若い月齢で出荷する赤肉 生産効率の良い去勢牛若齢肥育(18ヵ月齢450kg出荷)が主に奨励されました。また、一部の高級牛肉需要に対応するためには系統の良い去勢牛を用いた去勢 牛理想肥育(24ヶ月齢600kg出荷)が推奨され、それまで行われてきた2~3歳で肉質がとくに優れた処女雌牛を用いた雌牛理想肥育は資源保護のために つつしむよう指導されました。
これらの肥育様式は、上坂章二氏らにより昭和28年頃から試験を繰り返して準備されたものであったが、またたく間に広まり肥育の中心になったそうです。また雌子牛は資源保護のために肥育しないように指導されました。
昭和12年には日華事変が起こり昭和16年には太平洋戦争が起こるなど戦時色が強まってきました。
昭和16年からは統 制経済にはいったが、この時期から飼料事情が悪化し役肉用肥育は減り始め、昭和19年には完全に行われなくなりました。この間に青島牛肉の輸入は止まり、牛は 軍隊の食糧として大量に屠殺されるようになったそうです。
終戦の1年後の昭和21年には肉牛頭数が181万頭に減ったが、大量に屠殺された結果、淘汰も進み昭和 19年に和牛3品種は固定された品種になったようです。日本短角種が固定種となったのは昭和32年です。
昭和20年の終戦から昭和24~25年は戦後の食糧増産 期と言われ、昭和22年の農地解放と自作農創設により農家の生産意欲が極めて高まりました。
また、26年頃から統制経済から自由経済への移行が始まり、昭和 27年には麦の統制が撤廃され、化学肥料の利用も増え始めました。
昭和29年にはMSA協定が締結され、アメリカからの輸入穀物が家畜飼料に使用されるように なり、急速に普及しました。これと同じ頃から耕運機の普及も始まりました。
食糧増産期には役肉用牛が大きな働きをし、その後も和牛ブームは続き、昭和32年には 272万頭の史上最高の頭数を記録しました。
自由経済への移行に伴い昭和25年頃から役肉用牛の肥育が復活し、朝鮮特需景気の影響もあり、牛肉消費は拡大を続 けました。
昭和初期の農村恐慌により農業経営は著しい影響を受けました。
そのような中で役肉用牛は田畑を耕す労力や、堆肥 生産による金肥の節約は当然として、老人や婦女子の労力活用、野草やくず穀物、米糟など農業残滓の活用、生まれる子牛と使役後に肥育される牛による貴重な 現金収入等、自給的農業における価値が高く評価されて有畜農業が奨励されました。
その後も役肉牛頭数は増え、昭和15年には206万頭にもなったそうです。
役肉用牛の改良は、各県が役6、肉4とか役5、肉5といった独自の目標を立てて進めてきたが、
昭和10年 には各県の審査標準に大きな違いがないことが分り、昭和12年から黒毛和種、褐毛和種、無角和種の3つに分けて全国で統一された登録が開始されました。
これら が和牛3品種の原型となったようです。
昭和7~8年になると雄の去勢牛肥育試験が各地で行われるようになり、
昭和13年の牛肉生産では雌7、雄2、去勢1の割合になったそうです。
また肥育を始める年齢も若くなる傾向を示し、明治中期では、雄雌とも6~8才に集中していた が、大正時代には雄は3~5才、雌は5~6才になり10才を越えるようなものはなくなりました。
大正、昭和の肥育方法はこれらの牛を1頭ずつ飼う単房式で、床 を深く掘り敷料を底に敷き、敷料が汚れるたびに新しい敷料を積みかさねる深厩(ふかまや)踏込み式と言われる牛舎で1戸につき1~2頭の小頭数が飼われて いました。
肥育期間は半年程度であったが年齢の大きな老廃牛は1~2ヵ月で少し体脂肪をつけて出荷する程度でした。
大正元年から地方の実情に合わせて各県で独自に目標をたてて改良することが奨励され、大正6年から4年間に中 国地方や九州地方において本格的な牛の改良が行われるようになりました。
また、明治中期までは、役肉用牛の乳も利用されていたが、大正初期には乳用種と肉用種 は完全に分かれました。大正時代に入ると都市への人口流出や徴兵及び軍馬の徴用により農村の労働力が不足して役肉用牛は益々重要になり関東東北にも広まりました。
日清、日露の両大戦により牛肉消費は著しく拡大したが、大正時代には第一次大戦後の好況により一層消費が 拡大し、国産牛肉の不足が問題となったようです。
大正6年から10年にかけては、年間の平均で6,400tの青島牛肉等が輸入され、30,400頭もの朝鮮牛が輸 入されるようになり、大正7年からこれらに対する免税措置が講じられました。
役肉用牛の肥育は各地に広まり、ワラと米糠、くず穀物及び醤油粕などを用いた肥育 が行われ、大正末期には満州大豆粕の利用法が研究されて使われるようになったようです。
明治2年には、乳肉兼用型のショートホーン種が輸入されました。
この牛は特にその後の役肉用牛に影響を及ぼすもの ではなかったが、牛肉の消費が拡大するにつれ明治20年代には外国種と在来和牛との交配が検討され始め、シンメンタール、ブラウンスイス、デボン、ショー トホーン、エアシャー、ホルスタイン等の外国種が輸入されました。
明治33年には種牛改良調査会が在来和牛の外国種による改良方針が決まり、シンメンタールと エアシャーが交配されることになりました。
その後10年間にわたり外国種が盛んに交配されることになった。特に日清、日露の両戦争による牛肉消費の拡大は雑種 の生産に拍車をかけることになり、雑種万能時代と言われる時期がきました。
このようにして生まれた雑種牛は体重や乳量は増加したものの、雑多で鈍重なため農耕には使いづらく、肉質 も概して悪く雑多で、日本の飼料にもなじまないものになったため、明治末期には雑種恐慌時代と言われる時代になってしまいました。
明治45年に臨時産牛調査会はこれら の雑種の長所を生かし、短所を補い、日本の農業に適した牛にするための基本方針を示しました。
江戸時代には、中国地方でとれる砂鉄を原料としたたたら製鉄が盛んになり、原料の砂鉄や木炭を運搬するために足腰の 強い地低な牛が用いられました。
東北地方では三陸でとれる塩を内陸に運ぶために牛が用いられるなど、用途に適し体型的にも特徴のある牛が多くなってきました。
明治以前 の牛は毛色もさまざまであったが、中国地方では徳川時代末期でまだメンデルの法則が発見される以前に近代育種学で用いられるような系統交配や近親交配を用 いて牛を改良しており、いくつかの系統の牛が作られたが、これらを蔓(つる)牛と言いました。
牛肉は安土桃山時代に渡来した外国人によって食べられており、彦根藩では徳川時代に牛の屠殺が許されており、牛肉の 味噌漬を幕府に送ったとも言われているが、一般には牛肉を食べることは忌み嫌われていました。
しかし、密かに屋外でスキ焼くなどして食べられていたと言われて います。
室町時代には武家の力が強まり、領地を持って米の増産に励むようになりました。
これに伴い平坦な土地に作られた牧は田畑に開墾され牧は山奥へと移っていったが、牛は農耕用と糞尿を利用した堆肥作のために各地で広く用いられるようになったようです。
平安朝時代には、貴族や社寺の私的な領地である荘園が広まり、その中に馬を放牧する馬牧や牛を放牧する牧が作られました。
牧で飼われた牛は貴族の乗る牛車を引くために用いられました。
また乳の利用も盛んで、乳汁を精錬して作った酪、煮つめた煉乳様の酥、精製した醍醐などが貴 族の間で用いられていました。
飛鳥、奈良と続く時期は仏教が伝来して定着していった時代で、仏教伝来の影響で度々食肉禁止令が出されて牛の 食肉利用は減っていったが、特に桓武天皇(781~806)の食肉禁止令により表面的には牛肉は食べられなくなったと言われています。
しかし、食肉禁止令の 背景には仏教の影響だけでなく、貴重な牛を保護するためであったとも言われています。
原始日本人は弥生式文化期(西暦紀元前100年)に入るまで、狩猟、漁撈生活が中心で縄文文化期末(500年)か ら弥生式文化期始めに大陸から、主として南方系の牛が朝鮮半島を経て入り、北九州に始まった稲作文化の伝播とともに東へ移動し、当初は地方豪族の権力誇示 と農耕用に利用され、その数も少なく、屠殺、食肉などは考えもしなったと推定されています。
各地の風土記や古事記、日本書紀などを始め、万葉集などにも歴代天皇 の狩猟の記述があり肉食を暗示しているが、明らかに牛を食したという記録はありません。
昭和20年代、終戦直後の仙台には多くの米軍が進駐していました。彼らは大量の牛肉を消費するとともに、不要な部位(タンやテールなど)を捨てていたので す。
それに目を付けた焼き鳥店「太助」の初代店主、佐野啓四郎がタンを薄切りにして塩焼きにする調理法「牛タン焼き」を編み出しました。
これが、仙台にお ける「牛タン」の始まりです。
しかし、そんな牛タンも発明当初は不評、市民からはなかなか受け入れられずにいました。一部の愛好者や酔客が、珍味=締めと して食す程度だった・・・とされています。
やがて仙台に多くの転勤族(単身赴任者含む)が来るようになり、彼らの間で牛タンが評判となりました。
マスコミ などでも紹介され、国民全体に牛タンが受け入れられるようになったのです。仙台牛タンの多くは、塩やタレで味付けしたものが焼いた状態で出されます。
ま た、焼肉屋の牛タンに比べて厚切り・・・という点も、仙台牛タンの特徴といえるでしょう。仙台の牛タン専門店では、牛タン焼きに麦飯やテールスープを付け た「牛タン定食」なるものが存在。
他にもタンシチューやしゃぶしゃぶ、タン刺し(生)などのメニューがあります。
私も一度だけ食べたことがありますが、あ の美味しさと食感は今でも忘れられません。仙台牛タンを食べたことのない人は、ぜひ一度お召し上がりください!
カルビはどのようにして食べられるようになったのか・・・そんな歴史について見ていこうと思います。
昔、朝鮮では肉の良質部位が献呈されていて、身分の低 い人たちは骨にこびりついた肉(カルビ)しか食べられませんでした。
これをきっかけとして、カルビが食べられるようになったのです。
今では手軽に食べられ るカルビも、昔は生きるための糧だった・・・と考えると、牛肉のありがたみがわかります。
そんな「カルビ」も焼肉だけではありません。実は、さまざまな焼 き物の「名称」として使われています。
例えば、豚肉をしょう油ベースのタレにつけて焼いた「デジカルビ」や鶏肉と野菜をコチュジャンで炒めた「タッカル ビ」、鯖の開きを焼いた「コカルビ」など数種類にも及びます。
また、焼き物以外にも煮物や鍋料理など、さまざまな料理法で愛用されている・・・という点も カルビの特徴です。
ちなみに、カルビを使った鍋「カルビタン」は結婚式の来客用に出されるメニューの1つ。このように、韓国人にとって「カルビ」は欠かせ ない食材なのです。